ゴヤは18世紀から19世紀にかけて活躍したスペイン出身の画家である。
40歳で時の国王カルロス3世付き画家となり、その後は新国王のカルロス4世の宮廷画家に任命されるなど、画家として最高の地位についたゴヤだが、その僅か数年後に大病にかかり聴力を失い、さらにナポレオン率いるフランス軍がスペインに侵攻した事によって起きたスペイン独立戦争に巻き込まれるなど、後半は波乱に満ちた半生を送ったと言われている。
なお、ゴヤはカルロス4世の息子フェルナンド7世が行った恐怖政治、自由主義弾圧を避けて78歳の時にフランスに亡命し、そこで4年ほど暮らしてその生涯に幕を閉じたそうだ。
今回はこのようにゴヤについて私が知っている事や調べた事などを簡潔にまとめて分かりやすく紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。
もくじ
ゴヤの基本情報
先ずは生誕や死没など、ゴヤに関する基本的な情報を箇条書でまとめてみよう。
・名前:フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)
・生誕:1746年3月30日、スペイン
・死没:1828年4月16日、フランス、ボルドー(82歳没)
・死因:不明
・墓所:スペイン、マドリード、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂
・配偶者:ホセーファ・バエウ(1747-1812年)
・子供:7人の子宝に恵まれたが、成人になれたのはフランシスコ・ジャヴィア・ゴヤ・バエウだけである
・主な代表作:『カルロス4世の家族(1800~01年)』『1808年5月3日(1814年)』『我が子を喰らうサトゥルヌス(1819~23年)』.etc.
代表作にまつわる話
『カルロス4世の家族(1800~01年)』
出典 Wikipedia
この作品は題名通り、カルロス4世とその家族を描いたものであり、ゴヤの代表作の一つだ。
なお、風刺を利かせるためかどうかは分からないが、ゴヤは一家の肖像画の中に自身の肖像画を紛れ込ませている※左奥、大きなキャンバスの前に立っているのがゴヤである。
また、この絵は一人一人を別々に描いたものらしく、全員を一緒に描いた訳ではないそうだ。
『マドリード、1808年5月3日(1814年)』
出典 Wikipedia
『1808年5月3日』、別名『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』は1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけて、マドリード市民の暴動を鎮圧したフランス軍によって逮捕された反乱者(市民)が銃殺刑に処された場面を描いたものであり、ゴヤはフランス軍のこのような行いをひどく非難していたそうだ。
なお、これはスペイン独立戦争が終結した年の1814年に制作されたもので、2つの連作の内の一つである。
もう一方の作品のタイトルは『1808年5月2日』だ。
『我が子を喰らうサトゥルヌス(1819~23年)』
出典 Wikipedia
この作品は恐らくゴヤが描いたものの中で最も知名度の高い作品であり、ゴヤと言えば『我が子を喰らうサトゥルヌス』を思い浮かべる人が多いだろう。
なお、この作品は将来自分の子に殺されるという予言に恐れを抱いたサトゥルヌスが、予言が現実のものとならないように自分の子供を食い殺している場面を描いたものである。
また、サトゥルヌスはローマ神話に登場する農耕神であり、ギリシア神話におけるクロノスと同一視されているようだ。
クロノスと言えばゼウスの父親であり、予言通り自分の息子に滅ぼされている。
黒い絵(Black Paintings)
ゴヤは1819年にマドリード郊外に「聾者の家」と呼ばれる別荘を購入し、1820年から1823年にかけて、この家のサロンや食堂を飾るために14枚の壁画を描いた。
黒を基調とした作品が多かったため総じて「黒い絵」と呼ばれており、先ほど紹介した『我が子を喰らうサトゥルヌス』も「黒い絵」の一枚である。
なお、これ等の絵はゴヤが自分のために描いた極めて私的な作品群だと言われている。
以下に『我が子を喰らうサトゥルヌス』を除く残りの13点の作品の画像を貼って置くので参照して欲しい。
『運命の女神達(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『魔女の夜宴(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『棍棒での決闘(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『食事をする二老人(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『アスモデア(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『サン・イシードロの巡礼(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『砂に埋もれる犬(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『二人の老人(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『読書(解読)(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『ユーディットとホロフェルネス(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『自慰する男を嘲る二人の女(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『異端審問(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
『レオカディア(1819-1823年)』
出典 Wikipedia
ちなみに、ゴヤが購入した別荘が「聾者の家」と呼ばれていた理由は、前のオーナーが難聴であったからだそうだ。
ゴヤ自身も46歳の時に高熱を伴う大病にかかり、聴力を失ったと言われているが、この別荘の呼び名とは関係がないようだ。