夏目漱石は明治末期から大正初期にかけて活躍した日本を代表する小説家の一人だ。
旧千円札に肖像として描かれていた人物でもあるので顔を覚えている人も多いと思うが、彼の経歴や本名などを知っている人は多くはないだろう。
そこで今回は夏目漱石について私が知っている事、調べた事などを簡潔にまとめて分かりやすく紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。
※ちなみに現行のお札の肖像になっている人物はみな明治以降に活躍した文化人である
もくじ
夏目漱石の基本情報
先ずは生誕や死没、身長、出身地など夏目漱石に関する基本的な情報を箇条書でまとめてみよう。
・本名:夏目金之助
・生誕:1867年2月9日
・死没:1916年12月9日(49歳没)
・死因:ストレスからくる消化性潰瘍または胃潰瘍による腹部内出血
・墓所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋四丁目)
・身長:158~159センチメートル
・性格:繊細、神経質、内向的、頑固、思慮深く情に厚い
・代表作:「吾輩は猫である(1905年)」「坊ちゃん(1906年)」「草枕(1906年)」「三四郎(1908年)」「それから(1910年)」「門(1911年)」「彼岸過迄(1912年)」「行人(1914年)」「こころ(1914年)」「明暗(1916年)」
・配偶者:夏目鏡子
・子供:夏目純一(1907年ー1999年、職業はヴァイオリニスト)、夏目伸六(1908年ー1975年、職業は随筆家)
恵まれない子供時代
文豪と呼ばれる小説家は得てして不幸な者が多い。
理由は簡単で小説家は人生に悲しみや不幸が多ければ多いほど、人を惹きつけるような素晴らしい文章が書けるからだ。
なので、文豪と呼ばれるほど卓越な才能を持つ小説家はみな人生に悲しみや不幸を抱えているという訳だ。
夏目漱石も例外ではなく、生涯で様々な苦労や不幸を経験したと言われており、特に子供の頃の境遇は決して幸せなものではなかったそうだ。
彼は慶応3年1月5日(1867年2月9日)に地元の名士、夏目家の末っ子(五男)として生を受けたのだが、その時夏目家はすでにたくさんの子宝に恵まれていたので、漱石は望まれない子供だったという。
そして生後間もなく古道具屋または八百屋に養子に出されたそうだが、漱石の境遇を不憫に思った姉によって一旦実家に連れ戻されたそうだ。
その後また直ぐに別のところに養子に出されたのだが、養父母の関係が悪く、実家に戻ったり養父母のところに戻ったりを数回繰り返した後に9歳の時に実家に落ち着いたという。
なお、夏目家に復籍したのは21歳の時である。
イギリス留学時代
夏目漱石は様々な学問に精通していたが、特に英語が得意だったようで、彼は帝国大学を卒業してからイギリスに留学するまでの凡そ7年間を高等師範学校や高等学校、中学校などの英語教師として過ごしたそうだ。
そして明治33年5月(1900年)当時34歳だった漱石は文部省より英語教育法研究のためイギリスに留学するように命じられ、凡そ4か月後の9月10日の日本を発ったという。
このイギリス留学は繊細でナイーブな漱石にとってとても辛いものであり、彼は留学中の約2年と1ヶ月の間に精神を病んでしまったと言われている。
主な原因はイギリス(ロンドン)での生活に馴染めなかったからであり、下宿先の大家によると、当時漱石は真っ暗な部屋で涙を流す事もあったそうだ。
ちなみに彼が小説家としてデビューしたのは、イギリス留学から帰国した凡そ3年後の明治38年(1905年)であり、この時彼はすでに38歳であった。
死因
夏目漱石の死因については一般的にストレスからくる消化性潰瘍または胃潰瘍による腹部内大量出血が原因であると言われている。
イギリスから帰国し、小説家として成功してもなお彼のストレスは緩和せずに年々悪化していったそうだ。
そして大正5年(1916年12月9日)にストレスからくる消化性潰瘍または胃潰瘍による腹部内大量出血によって、「明暗」を執筆中に命を落としたという。
なお、彼は生涯で5回ほど胃潰瘍で入退院を繰り返していたらしく、1910年には胃潰瘍の療養中に訪れた伊豆、修善寺の旅館にて大量吐血をし生死をさまよったという。
俗にいう「修善寺の大患」である。