ゴッホはオランダが生んだ天才画家にして、ポスト印象派を代表する画家の一人である。
「星月夜」や「夜のカフェテラス」「ひまわり」など数多くの名作を世に残したゴッホであるが、生前はほとんど世間からは評価されず、晩年は苦悩する日々が多く精神的にも大分追い詰められていたようだ。
今回はそんなゴッホについて私が知っている事、調べた事などを私の考察なども交えながら紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。
※ポスト印象派とは印象派または印象主義(19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動)が起こった後に、フランスを中心として活躍した画家たちを指す言葉である
もくじ
ゴッホの基本情報
先ずは生誕や死没、身長、出身地などゴッホに関する基本的な情報を箇条書でまとめてみよう。
・名前:ヴィンセント・ウィレム・ヴァン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)
※上記は英語読みで、オランダ語ではフィンセント・ヴィレム・ファン・ホッホという発音に近い
・出身地:オランダ
・生誕:1853年3月30日オランダ
・死没:1890年7月29日フランス(37歳没)
・身長:170センチメートル
・主な代表作:「ひまわり」「アルルの跳ね橋」「夜のカフェテラス」「麦畑と糸杉」「星月夜」など
・画家としての活動年数:10年(27歳~37歳)
・前職:画商、伝道師など
・性格:頑固で扱いにくいが、愛情深い
・死因:拳銃自殺
献身的な弟テオ
ゴッホを語る上で欠かす事の出来ない最も重要な人物の一人が4つ年下の弟テオ(テオドルス)だ。
兄とは違いとても堅実で周囲からの評判も良く、晩年には妻子もあったそうだが、同時にゴッホの良き理解者でもあり、1880年にゴッホが画家を目指してから1890年に亡くなるまで経済的な援助を行い続けたそうだ。
テオの経済的な援助無くしてはゴッホが画家として活動する事も出来なかったので、彼が画家として残した数々の名作は弟の功績でもある。
なお、テオが結婚をしたのは1889年で、子供が生まれたのが1890年の1月であるが、これはゴッホが拳銃自殺をする丁度半年くらい前の事である。
そして、テオ自身もゴッホが拳銃自殺をした翌年の1891年に兄の後を追うように精神病院にて病死したそうだ。
アルルでの生活
ゴッホは1888年2月から1889年5月までの凡そ1年と3か月を南フランスのアルルで過ごしたそうだ。
南フランスの暖かい気候はゴッホに様々なインスピレーションを与えたと言われており、この間にゴッホは「ローヌ川の星月夜」や「夜のカフェテラス」「ひまわり」「黄色い家」などいくつもの代表作を描いている。
また、この地で芸術家を集めて共同体を作ろうと考えたゴッホは、アルルの中心街に一階をアトリエとして整備した「黄色い家」を借りて、その旨を綴った手紙を画家仲間十数人に送ったそうだ。
その中でも特にゴーギャンには作品を描いて贈ったり熱心に手紙を書いて送ったりしていたようだ。
そして、ゴーギャンがゴッホの申し出を受け入れると彼はゴーギャンの部屋を飾る為に後の名作「ひまわり」を描いたそうだが、ゴーギャンとの共同生活は上手くいかず凡そ2か月で終わってしまったそうだ。
なお、その頃のゴッホは癲癇の発作に度々襲われるなど精神的にかなり不安定だったようで、あの有名な「耳切り事件」も丁度この頃だ。
一説によるとアルルを去ろうとするゴーギャンを引き留める為に自分の耳を切ったとも言われている。
サン=レミの療養所~オーヴェルの農村
耳切り事件の後、凡そ2週間ほど精神病院に収容されていたゴッホは退院するとアルルから約25km離れたサン=レミの療養所に自ら入院したそうだ。
さて、1889年の5月から1890年の5月までの凡そ1年をサン=レミの療養所で過ごす事になったゴッホだが、その間も作品は描き続け「星月夜」「アイリス」「二本の糸杉」などの名作を完成させている。
その後療養所を退院したゴッホは一度弟テオが暮らしていたパリに身を寄せるが、都会の喧騒を嫌いパリから北西へ凡そ30km離れたオーヴェルの農村へ向かった。
ここがゴッホの終焉の地になるのだが、彼はオーヴェルに到着してから死ぬまでの凡そ2か月の間にも「医師ガシェの肖像」や「オーヴェルの教会」などの名作を描いている。
この頃にはもう既にゴッホの作品は評価され始めていたのだが、彼は1890年7月27日に拳銃で自らの胸部を撃ち自害を試みた。
だが即死は出来ずに凡そ2日間苦しんだ後に同年7月29日に息を引き取ったそうだ。
なお、兄の危篤を知らせる手紙を受け取ったテオは直ぐにゴッホの元へと向かい、その時まだ意識のあったゴッホと話をする事が出来たと言われている。