宮本武蔵は戦国時代末期から江戸時代初期に活躍した、世界で最も有名な剣豪(侍)だ。
武蔵と言えば巌流島での決闘や吉岡一門との死闘などが有名であるが、彼の伝説の中には誇張されたものや史実と異なるものも多い。
そこで今回は剣豪宮本武蔵について私が知っている事、調べた事などを簡潔にまとめて分かりやすく紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。
もくじ
武蔵の基本情報
先ずは生誕や死没、身長、出身地など宮本武蔵に関する基本的な情報を箇条書でまとめてみよう。
・生誕:天正12年(1584年)
・死没:正保2年(1645年、61歳没)
・死因:病死
・墓所:熊本県熊本市(武蔵塚)と岡山県美作市(武蔵の墓)
・身長:6尺(約182cm)
・生涯決闘回数:60数回(13歳~29歳)
・流派:円明流、二天一流
・性格:卑怯、非情=生粋の兵法者
・文化的作品:五輪書(兵法書)、鵜図、枯木鳴鵙図(いずれも水墨画)など
・父:新免無二斎
・養子:三木之助、伊織
巌流島での決闘
宮本武蔵と言えば慶長17年(1612年)に行われたとされる巌流島(舟島)での佐々木小次郎との決闘が最も有名なエピソードであるが、実際には一般的に知られている内容とは大きく異なる箇所もあるようだ。
例えば実際の佐々木小次郎は美剣士ではなく中年の男で、剣の腕も大したことなかったとも言われている。
しかも、決闘当時の年齢は武蔵が29歳だったのに対して小次郎は40歳ほど年上だったとも言われている。
もしそれが本当だったとしたら中年どころではなく老人である。
なお、佐々木小次郎の出生や本当の名前については諸説あるらしく、詳しい事は誰にも分からないそうだ。
吉岡一門との死闘
吉岡一門との決闘の詳細については諸説あるのだが、一般的には決闘は3回行われたと言われている。
1度目は吉岡の当主であり師範だった吉岡清十郎、2度目は清十郎の次男の伝七郎だ。
そして、吉岡の長男と次男を武蔵に倒された吉岡一門は武蔵に復讐する為に一門総出で決闘を挑む事にしたそうだ。
それが3度目の決闘となる「一条寺下り松の決闘」であり、この戦いで吉岡一門は滅んだと言われている。
文化人としての武蔵
宮本武蔵は武芸者として一流だっただけでなく、文化人としても一流だったようで、武道哲学書(五輪書)や水墨画などの文学作品が何点も残っている。
なお、現存する作品の多くは寛永17年(1640年)に肥後熊本藩主、細川忠利に招かれて熊本に移り住んでから亡くなるまでの5年間に仕上げられたものだそうだ。
以下に彼が描いた水彩画を何点か載せて置くので参考にして欲しい。
「鵜図」
出典 文化遺産オンライン
「枯木鳴鵙図」
出典 Wikipedia