福沢諭吉は幕末から明治中期にかけて活躍した日本の武士、教育家、著述家、啓蒙思想家である。
慶応義塾大学の創設者、または一万円札の肖像に描かれている人物として広く一般的に知られているが、詳しい事を知っている人は多くない。
そこで今回は福沢諭吉について私が知っている事や調べた事などを簡潔にまとめて分かりやすく紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。
もくじ
福沢諭吉の基本情報
先ずは生誕や死没、身長など福沢諭吉に関する基本的な情報を箇条書でまとめてみよう。
・名前:福澤諭吉/福沢諭吉
・別名:中村諭吉、範、子囲、三十一谷人.etc
・生誕:1835年1月10日、大阪
※ちなみに坂本龍馬はこの翌年の1836年1月3日生まれである
・死没:1901年2月3日、東京(66歳没)
・死因:脳溢血
・墓所:東京都品川区の常光寺(前)、東京都港区麻布近くの善福治(現在)
・身長:173センチメートル
・配偶者:福沢錦
・子供(四男五女):福沢大四郎、福沢一太郎、福沢捨次郎、福沢三八、福沢光、福沢俊、福沢房、福沢滝、福澤里
・性格:ユニーク、ユーモラス、勤勉、子煩悩
福沢諭吉にまつわる話
ここでは福沢諭吉についてもう少し詳しく学ぶために、彼にまつわる話を幾つか紹介していく。
武士としての福沢諭吉
福沢諭吉は元々は幕府側の中津藩出身の武士であるが、生来血を見るのが苦手だったそうだ。
そんな彼は14~5歳頃になると学問の面白さに気づき、武道よりも勉学に勤しんでいたという。
なお、学問のかたわら立見新流の居合術を習得したそうで、剣の腕は中々のものだったと言われている。
倒幕後は新政府から士官して出仕するように求められたが断り、明治になってからは帯刀をやめて平民となったそうだ。
福沢諭吉と蘭学、蘭語、蘭学塾
福沢諭吉は漢学者であった兄、三之助の勧めで、19歳の頃に中津藩を出藩し、蘭学を学ぶため長崎へ出立したという。
色々あって長崎を出る事になった福沢諭吉は20歳頃になると大阪に行き、足守藩下士の蘭学者、緒方洪庵の「適塾」で学ぶ事になったそうだ。
1857年、22歳になる頃には適塾の最年少塾頭になっており、蘭学、蘭語の知識は相当のものとなっていたという。
そして、翌年の1858年になると諭吉は中津藩から江戸出府を命じられ、江戸へ行き、そこで蘭学塾(後の慶應義塾大学)を開き蘭学を教えたそうだ。
そして、慶応4年(1868年)に蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念するようになったと言われている。
福沢諭吉と幕府の仕事
福澤諭吉は蘭語だけでなく、英語も独学で学び習得したそうだ。
そして1859~1860年に幕府使節団に加わり、勝海舟やジョン万次郎らと共にアメリカへ行き、そこでアメリカの文化などを学んだと言われている。
帰国後は「幕府外国方(現:外務省)」に採用され、その後は「翻訳方」に採用されて公文書の翻訳などを行っていたそうだ。
福沢諭吉の名言集
福沢諭吉は啓蒙思想家でもあったので、当時では革新的な名言を幾つも残している。
ここでは私が個人的に気に入ったものを幾つか紹介していく。
・天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
・ペンは剣よりも強し。
・自分の悪いところに気が付いて改めるというのは立派な事だ。
・今日も生涯の一日なり。
・努力は天命さえも変える。